U-NEXTで。
数十年ぶり、半世紀近い再見である。
めちゃめちゃ面白かった。
再発見ってゆうか、あらためて確信した。

ゴダールの映画は、ディランの音楽のようだ。
詩、なんだよ。ビート詩、なんだ。
表現の核にあるのは、言葉、だ。
映画なのに、音楽なのに、受け手を捉えて離さないのは、
ゴダールの言葉、ディランの言葉、なのだ。
僕は、ディランの音楽を聴くとき、
英語力のない僕には、ほとんどちんぷんかんぷんであるが、
それでも、歌詞を追いかけている。そういう聴き方をする。
だって、そういう風に聴けってディランが歌ってんだから。
ゴダールの『気狂いピエロ』もそうだ。
僕は、詩集を読むように字幕を追いかける。
で、あまりのカッコ好さに、痺れてしまう。
オフビート映画の先駆ではもちろんあるが、
僕は、オフビート映画を好まない。
単に映画文法の定石を外しているだけだろ、
目新しいだけで、本質的に新しいわけじゃない。
しかし、『気狂いピエロ』は違う。
ワン・アンド・オンリーの栄光を、永遠に担う。
それは、映画という原稿用紙に書かれた、詩だから。
その存在自体が、在り得べからざるものだから、だ。
もちろん、撮影も美術も、素晴らしい。
それは、装丁の素晴らしい詩集を読むときと、同じ満足だ。
なんで、詩なら詩として、発表しないのか。
そこが、疑問ではあるが。そこが、衝撃か。
ゴダールの『気狂いピエロ』に痺れない男と、
友情を結ぶことは、あるだろう。だが、
ゴダールの『気狂いピエロ』に痺れない女と、
恋に陥ることは、決してない。
全編がほぼそれで構成されている、
J・P・ベルモンドとアンナ・カリーナとの台詞の応酬、
その中で最も心ときめく、深夜のランナウェイシーン。
「バックミラーに何が映ってる?」
「崖から飛び降りようとしてる男の顔」
「崖から飛び降りようとしてる男に恋する女の顔」
恋してくれる女がいなきゃ、男は、
崖から飛び降りることなど、できゃしない。
♪~夜ならいつか明けるだろ
それでも長い夜もあろう
赤い太陽とけあう海に
永遠をみたのか気狂いピエロ
バイバイ さよなら
遠い旅に出ようか
行くあてなんて
知らないままに
白河夜船
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