9月12日付毎日朝刊で、岸政彦という、
社会学者にして小説家の存在を知った。
下掲は、その紹介記事の最終部です。

関西の私大を出て、ジャズベーシストとして生計を立てながら、
才能の限界を感じて挫折。社会学者として身を立てようとするも、
まったく食えず、日雇労務者や塾講師で糊口を凌ぎつつ、
フィールドワークを重ね、社会学の本の出版に漕ぎつく。
それを読んだ文芸編集者の執拗な小説執筆の勧めで、
初の中編小説「ビニール傘」を発表。芥川賞候補となる。
なんと面白い、人生航路であろうか。
図書館へ走った。『ビニール傘』を借り出し、読んだ、耽った。
なんだか、とてつもなく、やるせなくて、身に沁みて、
グダグタ念ううちに、そのやるせなさが、突如美しさに昇華する。
まるで、成瀬巳喜男の名作映画のような、文芸体験をした。
『リリアン』そして、大阪出身の芥川賞作家柴崎友香との共著、
『大阪』と、貸出可能な本を続けて借り出した。
『大阪』収録の一編、「淀川の自由」に、心底痺れた。
淀川河川敷の近くに下宿していた、学生時代の追憶である。
これから先、岸政彦の著作を読み続けることになるだろう。
が、これを超える共感は、覚えないのではないかと思う。
ー淀川のことを考えると、いつもある家族のことを思い出す。
人間の家族ではなく、犬の家族である。三十年前、
ある冬の日の夕暮れに当時の彼女と河川敷をぶらぶらと歩いているとき、
たくましい白の雑種犬が、何頭もの自分の家族を引き連れて、
東の方向に走っていくのを見た。いまでは考えられないことだが、
当時は野犬というものがいたのだ。しかし、それにしても、
犬の大家族を見たのは、それが初めてで、最後だった。
あの犬たちは、どこで生まれて、どこで暮らして、何を食べていたのだろう。
子どもたちは無事に大きくなっただろうか。あのあと、
大阪もずいぶん近代化されて、野良犬が暮らしにくい街になっていった。
たくましいリーダーの犬と、数頭の若い大人たち。妻たちだろうか。
そしてそのあとを転げ回りながら走ってついてくる、たくさんの、
まだ小さい子犬たち。夕暮れの河川敷のなかを、
息をのんで見守っている私たちに目もくれずに走り去っていった、誇り高い犬たち。
おそらく長くは生きなかっただろう。もしかしたら、そのうちの何匹かは子孫を残し、
その遺伝子を継ぐ誰かが、どこかで飼われているのかもしれない。
どこかの家で引き取られ、首輪をされ、暖かい部屋のなかで、
平和に暮らしているかもしれない。冬の金色の夕焼けのなかを、
家族とともに自由に走り回る夢を見ながら。
だが、そうした自由はおそらく、過酷な運命というものと一体となっているのだ。ー
かなしくも雄々しい、雄々しくもかなしい。この文章の魅力は、
きっと、岸政彦という一個の男子そのものの、魅力でもあろう。
こんな男と、呑み明かしたいなあ。こんな男に、俺の歌を聴かせたいなあ。
