眼光紙背に徹す、とは、これを言うのだろう。
劇団民藝の俳優であり、演出家であり、総帥であった、
故宇野重吉が、自ら演出する『桜の園』上演にあたり、
チェーホフの原作を読んで読んで読み抜き、読み解いていく、
そのドキュメントを記した一冊である。1978年、麥秋社刊行。

面白い。頗る面白い。
宇野重吉、まるで、松本清張の小説に出てくる、老刑事のよう。
僅かな手掛かりを頼りに、一つ一つ丹念に真相を掘り起こし、
事件の核心へと向かう、その執念の追跡が。
えっ、そうなの?うーん、なるほど!
原作に肉薄する、宇野重吉の読み、めっちゃサスペンスフル。
なぜ、今時分、いきなり本書なのか。これは、ですねえ。
白井聡『武器としての「資本論」』が、そもそもの発端。
その中に、チェーホフの『桜の園』への言及があった。
で、数十年ぶりに、神西清訳の新潮文庫版を再読した。
いやー、やっぱ名作。胸に沁みるよと感慨をあらたにし、
ネットで検索をかけたところ、本書の存在を知った。
で、本書について検索すると、ネット古書店で販売していた。
送料別だが、なんと1000円ちょうどで売りに出されていた。
それで、ソッコー、注文したという次第であります。
読んで、魂消た。そして、得心した。
ヒロイン、ラネーフスカヤの哀しみが茶番でしかない、なんて。
なるほど、ならば『桜の園』は、チェーホフが力説したように、
喜劇、だ。ラネーフスカヤ、もう、けちょんけちょん。重吉翁は記す。
…だいたいラネーフスカヤなんて女を、これまでわれわれはどういうわけか、
まともな人間として扱いすぎたのだ。チェーホフも書いているではないか、
「ああいう女をおとなしくできるのは、ただ死があるばかりだ」と。
名訳と謳われる新潮文庫版しか読んでいない、
舞台は一度も観たことはない、僕からすれば、大ドンデン返しだ。
もちろん、重吉翁は承知の上で、さらに記す。

…ラネーフスカヤに関してのこれまでの私の記述が、
彼女に対して意地悪すぎると思われた方も多いかもしれない。
それは勘ぐりすぎだとか、それではラネーフスカヤ夫人の貴族的な
美しさも気品もすっ飛んでしまうとか、そんなふうにしか夫人の
意識過程がたどれないのはお前自身の根性が下種だからだとか。
重吉翁、男前ですよね。あくまで客観的、己の演劇への信念である、
リアリズムに徹して、自らをも俎上に載せている。
…私は何か偏った考えをもって夫人に接していったわけではなく、
ひたすらチェーホフの戯曲人物のひとりとして彼女を追っただけだ。
「何故だろう?」「何故だろう?」を繰り返し繰り返し
チェーホフのつくった人物の内部へ立ち入ろうとしただけである。
…断っておくが、醜いのは彼女の内部であって、姿が美しく、
優雅で、聡明な気品さえ漂うことに私はなんの異論もない。
それどころか『桜の園』の上演に際し、ラネーフスカヤ夫人の役は、
その条件を充分に満たし得る女優が演じなければならないと思うし、
それは、まさに配役の必須条件でさえあるだろう。
くわー、宇野重吉演出の民藝『桜の園』、観てみたい。
ラネーフスカヤに細川ちか子、ロパーヒンは滝沢修、
脇を固めるのは、清水将夫に大滝秀治、奈良岡朋子、米倉斉加年、
愛娘アーニャには真野響子というキャスティングだ。
本書には、その時の舞台写真も多数掲載されている。珠玉の良書。