橋本治など、眼中になかった。
「広告批評」お抱えの物書きで、サブカルの代表選手くらいに思っていた。
当時の「広告批評」は、高度消費社会が自由と解放をもたらすなどと、
アホかと言いたくなるようなメッセージを発していた。
80年代バブル経済期、吉本隆明vs埴谷雄高論争の頃だ。
いやー、情報社会って、ほんとダメっすね。読みもしないくせに、
耳をかすめる情報で以って「ケッ」とか「スゲー」とか判断しちゃうんですから。
おやっと思ったのは、今年2月22日付毎日新聞夕刊「特集ワイド」の記事である。

この記事をみて、橋本治を読み始めた。時評は、それほどとも思わなかった。
面白くはあるが、出版社の要請のままに直観で喋喋したもので、深みは感じられなかった。
力を入れたものをと思い、小林秀雄賞を獲った
『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』を読んだ。
随分頭の良い人だと思った。これだけの文芸評論を書ける人って、
今いないぜ。平成の日本文学界で、一番頭が良いのではないかと。
小説を読んでみた。『生きる歓び』という短編集から。
胸にじんと来た。人生は小説や映画のようにはドラマチックではないが、
総体として小説や映画よりもドラマチックだという真実に、肉薄していた。
サブカルの軽さや薄さは微塵もなく、自然主義文学の王道を往くものだった。
古めかしくはなく、あくまでアップデートでありながら、である。
凄いよ。なんで、これほどの作家が、評価されなかったんだろう。
そして、その続編ともいえる市井の人々の今日を綴った『蝶のゆくえ』を読んだ。
冒頭の一作が「ふらんだーすの犬」である。児童虐待がテーマだ。
身震いしてしまった。時評で「バカの増殖」に対し、
警鐘を鳴らし続けていた作家が、バカが増殖した社会の悲劇を描いた一編である。
なぜこれほど、貧乏と闘う知恵と教養を日本人はなくしてしまったのか。
虐げられた弱い人間の遣る瀬ない怒りは、その捌け口は、より弱い者へと向かう。
そんな社会であってはならない。そんな社会はクソだ。
橋本治「ふらんだーすの犬」は、平成のプロレタリア文学でもある。