世に、シンガーソングライターなる手合いは、星の数ほどいる。
僕も、その一人だ。大概は、自分が一番だと思っている。思ってなきゃ、
人前で、自作の歌など唄えるもんじゃありませんよ。自己愛の塊である。
うざい。フォークと呼ばれる音楽の気恥ずかしさは、ここにある。
赤の他人の自己愛など、普通は構ってられない、聴いてられない。
しかし、そこを無理強いしてくる兵がいる。千尋の海のように深い、
自己愛の持ち主。そうまで深くなると、様相は違ってくる。
女なら、中島みゆき。男なら、友川カズキ。
シンガーソングライターの真骨頂、極北である。
彼らの歌を聴くがよい。精神に響く。按配が悪くなる。
聴く者の按配を悪くするという力業において、彼らは、
オーネット・コールマンやアルバート・アイラーにも匹敵する。
もしかすっと凌駕するかもわからん。恐ろしいほどの表現力だ。
友川カズキ。デビュー当時は確か、かずきとひらがな表記だったと思うが、
同じ東北出身の三上寛を彷彿させるスタイルで、二番煎じはいいよと、
ろくすっぽ聴いちゃいなかった。何十年も素通りしてきた。
それが、ブログを始めた頃、
ちあきなおみの「夜へ急ぐ人」を聴いて、
その作者だと知って、唸ってしまった。で、つい先日、
会社の昼休み、本屋でたまたま、新刊本を手に取った。
滅法面白い本人の語り下ろしで、立ち読みが止まらず、えいっと大枚はたいた。あちゃ。
レコードまでは金が回らず、YouTubeで検索をかけると、
「夢のラップもういっちょ」という歌がUPされていた。
しっかり対峙して聴いた。物凄く、按配が悪くなった。
メロディライン自体は、高田渡風だが、彼のように借り物の詩ではない。
自腹を切って購った、自身の血で書いた詩だ。そして、迸る歌唱。
研いでない刃物で刺されたような痛みが、僕を襲う。共演のチェロが、痙攣を起こす。
まるで、ヴァン・モリソンがリチャード・デイヴィスと作り上げた、
「アストラル・ウィークス」のようだ。俄然、負けられっかよ、僕の闘志に火がついた。
逃げろ、滝澤正光。夢のラップを刻め、さあ、もういっぺん。これが、歌だ。歌の力だ。
映画監督の大島渚は、若い人たちに、
友川カズキを聴けとアジテーションしていたという。
『友川カズキの歌が胸に染み入るとしたら、君は幸せだと思え。
涙があふれたら、君は選ばれた人間だと思え。君にもまだ無償の愛に
感応する心が残っていたのだ。無償の愛がまだ人の世に存在すること、
それこそが友川が身を以て購い、明かしてくれたことなのだ』
真物は、ジャンルに関係なく、真物だ。
僕の歌は、どうか。君の歌は、どうだ。