村社会から疎外され、
行き場を失くした青年の底知れぬ悲しみと怒りを、
哄笑のうちに描きつ、やがて澄明な詩情へと至る。
奇跡のような60年代山田洋次喜劇に、
「馬鹿が戦車でやって来る」がある。
それ以来の、それ以上の、文芸体験だった。
映画では、内心を描き切るのは、まず不可能だろう。
文学のみが、それを可能にする。それを果たし得た。
作家町田康は、いまも河内音頭に唄われる、
世上名高い「河内十人斬り」に題材を取り、(直リンは、初代幸枝若の名人芸に付けるべきであろうが、
「告白」のポップな狂躁により相応しい、ファミリー光博)
犯人城戸熊太郎の内面に筆一本で分け入る。
人間の内面に正味、分け入ろうと思えば、
筆一本しかない。長文を綴るほかにない。
テーマは「罪と罰」である。
ドストエフスキーときたのだ。北野田。
社会とは、正義とは、罪とは、罰とは、なんぞや。
いまここで、凶刃をふるう、自分とは、なんぞや。
明治の初めに思春期を迎えた、大和国河内在の百姓の倅、
城戸熊太郎は、村人の中でただ一人、近代的自我に、
目覚めてしまったのである。その苦悩、その孤独を、
作家は、ビートの利いた文体で、重喜劇として活写する。
哲学的な命題を求めながら、その発端は、
水車壊しの賠償から始まり、いつだって、
いやんなるくらい、身も蓋もない、
「銭」「銭」「銭」の問題である。
笑い死にするんじゃないかというくらい笑わせながら、
人間存在の根源的な悲しみが、ひたひた、ひたひたと、
押し寄せてくる。これほどの文芸体験は、極めて稀だ。
新聞の連載小説が、単行本化され、文庫本になった。
文庫の解説には、なんと石牟礼道子があたっている。
石牟礼作品の基底には、近代への懐疑、呪詛がある。
近代、イコール、銭がすべての資本主義社会こそが、
人間性を剥奪するとの念い、そこから転じる、
原初的生命、自然回帰、輪廻への祈りがある。
イヤコラセー、ドッコイセ。河内音頭は、盆踊り唄だ。
本作は、そうした宗教的なまでの高みに、達している。
けだし、傑作。